三年ぶりに開催します。「秋田から土方巽を偲ぶ」
今年は現代美術の旗手、秋田公立美術大学の准教授山川冬樹氏をお招きして、
新しい視点で土方巽とその舞踏をお話していただきます。
▶1928年(昭和3年) 秋田県南秋田郡旭川村泉(現・秋田市保戸野八丁)に生まれる。 父・米山隆蔵、母・スガの11人兄弟の10人目で九日生(くにお)と名付けられる。
▶1942年(昭和17年) 秋田県秋田師範学校付属小学校高等部を卒業。
▶1946年(昭和21年) 秋田県立秋田工業学校本科電気科を卒業。秋田製鋼入社。 秋田市のモダン・ダンス研究所の増村克子に師事しノイエ・ タンツ(ドイツ系)のダンスを習得。
▶1947年(昭和22年) 初めて上京。高輪(港区)の正源寺に下宿。同宿泊の画家田 中岑と親しくなり、多くのクリエーターを知る。
▶1949年(昭和24年) 再度上京。〈第1回大野一雄舞踊公演〉で衝撃を受ける。
▶1950年(昭和25年) 秋田の旭館で友人の網代四郎と「月の浜辺」を踊る。
▶1952年(昭和27年) 津田・元藤近代舞踊研究所が目黒区目黒(現・中野)に元藤 燁子により設立される。(のちのアスベスト館)
▶1953年(昭和28年) 安藤三子舞踊研究所に入門。
▶1954年(昭和29年) 母スガの死去で帰郷。〈安藤三子ダンシング・ヒールズ特別 公演〉で土方九日生を名乗り初舞台を踏む。
▶1957年(昭和32年) 〈安藤三子・堀内完ユニーク・バレエ・グループ第3回定期公 演〉で「雪の上の足跡」をソロで踊る。この頃土方ジュネを 名乗る。
▶1958年(昭和33年) 今井重幸構成・演出、ヨネヤマ・ママコ振付のバレエ・パ ントマイム<ハンチキキ>でヨネヤマ・ママコ、大野一 雄らと共演。この公演で初めて[土方巽]を名乗る。
▶1959年(昭和34年) 〈第5回大野一雄舞踊公演〉「老人と海」の舞台監督 を務める。〈全日本芸術舞踊協会・第6回新人舞踊 公演〉で「禁色」を発表。これが縁で、三島由紀夫と の交流が始まる。650EXPERIENCEの会〈9月5日6 時の会・6人のアヴァンギャルド〉に「禁色」(改 訂版)を発表。この年、写真家細江英公と知り合 う。
▶1960年(昭和35年) 初のリサイタル〈土方巽DANCE EXPERIENCEの会〉 を開く。瀧口修造、澁澤龍彦らとの交流が始まる。 650EXPERIENCEの会で「聖侯爵[暗黒舞踏]」を発表。〈元 藤燁子DANCE RECITAL〉で「EMILYの薔薇」を演出。音 来サヒナ(本岡テル)と入籍。 寺山修司演出の「贋ランボー伝」「直立猿人」に出演。
▶1961年(昭和36年) 〈土方巽DANCE EXPERIENCEの会〉で「半陰半陽者の昼下 がりの秘儀・参章」等を発表し、初めて[暗黒舞踏派]を称す る。モデルとして細江英公の写真集〈薔薇刑〉をアスベスト 館で撮影。
▶1962年(昭和37年) 〈レダの会発足第1回公演〉で「レダ三態」を作・演出。アス ベスト館での初舞踊公演。埴谷雄高が"胎内瞑想"と評する。 ハプニング〈敗戦記念晩餐会〉に参加。アスベスト館の名称 とともに稽古場とする。
▶1963年(昭和38年) 〈土方巽DANCE EXPERIENCEの会〉「あんまー愛慾を支える劇場 の話」を作・演出・振付・出演。土方の作品中、最も前衛芸術的な 作品。
▶1965年(昭和40年) 細江英公と秋田に帰郷、後に写真集「鎌鼬」となる写真撮影 を羽後町田代で行う。この東北の風土と身体を再認識する 経験がその後の土方作品に影響を与える。 ガルメラ商会謹製〈暗黒舞踏派提携記念公演〉「バラ色ダ ンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の 方へ)」演出・振付・出演。
▶1966年(昭和41年) 〈暗黒舞踏派解散公演〉「性愛恩懲学指南図絵ートマ ト」演出・振付・出演。
▶1967年(昭和42年) 吉岡実と知り合う。ガルメラ商会謹製〈高井富子舞 踏公演〉「形而情學」を演出・出演。これまでの実験 的な舞台から「肉体の叛乱」に繋がる舞踏への転換を示す。
▶1968年(昭和43年) 〈土方巽舞踏公演〉「土方巽と日本人ー肉体の叛 乱」を演出・振付・出演。土方の完全なソロで暴力性とエロチシズムとユーモアに溢れ、聖性にまで昇華された 舞台となる。 元藤燁子と入籍し元藤姓になる。
▶1969年(昭和44年) 写真集「鎌鼬」刊行。映画出演が続く。
▶1970年(昭和45年) 芦川羊子、小林嵯峨他、女性の弟子を中心に幻獣社を結成。 ア―ト・ビレッジでの連続公演を開始。
▶1972年(昭和47年) 「すさめ玉」「碍子考」「なだれ飴」「ギバサン」を作・演出・振 付・出演。(出演は「なだれ飴」を除く。)東北回帰を集大成とするテーマと内容で[東北歌舞伎]と称した舞踏の様式化の端緒 ともなる舞踏史上、記念碑的な公演となる。
▶1973年(昭和48年) 土方巽と暗黒舞踏派が第4回舞踊批評家協会賞を受賞。 〈土方巽燔犠大踏鑑公演[踊り子フーピーと西武劇場の ための15日間]〉「静かな家:前篇・後篇」を作・演出・振 付・出演。タイトルは吉岡実の同名詩集に拠る。 〈大駱駝艦・天賦典式〉で磨赤児作・演出「陽物神譚」に 特別出演。舞台出演の最後となる。
▶1974年(昭和49年) 芦川羊子を中心として白桃房を発足させ、土方は演出と 振付に専念する。 アスベスト館を劇場として改装、白桃房の本拠地として連続 公演を開始する。
▶1976年(昭和51年) 〈犬の静脈に嫉妬することから〉(湯川書房)刊行 〈暗黒舞踏派結成20周年記念連続公演・アスベスト館封印記 念公演・燔犠大踏鑑〉作品No.16「鯨線上の奥方」を作・演出・ 振付。この公演でアスベスト館を封印し白桃房によるアスベ スト館連続公演を停止する。
▶1977年(昭和52年) 土方巽と暗黒舞踏派が第8回舞踊批評家協会賞を受賞。 雑誌「新劇」に「病める舞姫」の執筆を始める。 (翌年3月まで連載) 〈大野一雄舞踏公演〉「ラ・アルヘンチーナ頌」を演出。その後 の大野一雄の舞踏活動を基礎づける。
▶1978年(昭和53年) パリ市フェスティバル・ドートンヌ〈間展〉(ルーブル装飾 美術館)に「闇の舞姫十二態ールーブル宮のための十四 晩」を構成。初の海外公演。
▶1983年(昭和58年) 「病める舞姫」(白水社)を刊行。 〈FESTIVAL OF JAPANESE ARTS(日本芸術祭)〉(イギリス・ノッ ティンガム)に 「日本の乳房」を構成。 他にオランダ、ドイツ、イタリアなどで上演。
▶1984年(昭和59年) 「土方巽舞踏講座」(アスベスト館)を毎週日曜日に開講。 〈田中泯1501回独舞公演〉を構成・演出。
▶1985年(昭和60年) 〈スタジオ200舞踏講座〉「東北歌舞伎計画1」~「東北歌舞伎 計画4」などを作・演出・振付。
▶1986年(昭和61年) 肝硬変、肝臓がんを併発。東京女子医大付属病院にて死去。 享年57歳。静岡県伊東市宇佐美の朝善寺に納骨。戒名「慶徳 院公修日映居士」
▶1987年(昭和62年) 遺文集「美貌の青空」(筑摩書房)刊行。装丁吉岡実
*参考資料:「土方巽の舞踏 肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー」(慶応義塾大学出版会)川崎市岡本太郎美術館・慶応義塾大学アートセンター編/「土方巽 絶後の身体」(NHK出版)稲田奈緒美